TOP » 森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる④

旅の発見スペシャルコンテンツ

平泉から尿前の関へ─Part2義経鎮魂の旅のクライマックス奥州文化の華・平泉

江戸を旅立ち44日目の元禄2年(1689)陰暦3月27日(陽暦5月16日)、芭蕉と曾良は快晴の空のもと一関から平泉へと向かいました。旅の目的のひとつがかなう時が来たのです。

500年の時を乗り越え、義経の悲運に感応する


暮れゆく「毛越寺」の境内にて、予感が走った瞬間を撮影

「おくのほそ道」の旅は、西行(さいぎょう)をはじめとした先達の歌枕(和歌に詠まれた地名や名所)を訪ねるとともに、悲運の武将・源義経とその郎党への鎮魂が大きな目的でした。 平泉は、平安時代(11世紀)後半から、約100年にわたり奥州藤原氏が支配する「みちのくの都」でした。初代・藤原清衡(きよひら)から基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)と続く3代に絢爛たる平泉文化が花開きます。源平戦での勲功著しい義経でしたが、兄頼朝の不興をかい追討される身に。弁慶らを伴い義経が目指したのは、かねてより親交の深かった秀衡のいる平泉。苦労の末、平泉にたどり着いた義経を秀衡は温かく出迎えました。しかし、その8カ月後に秀衡が死去。4代・泰衡(やすひら)は、頼朝からの圧力に耐えかね、義経居館を急襲。応戦むなしく義経は31歳の生涯を閉じました。なお、芭蕉が平泉を訪れてた元禄2年は、奇しくもその500年後にあたります。

藤原氏三代の夢の跡を行く 伽羅御所跡・柳之御所遺跡

「伽羅御所跡」にて。右手奥に見えるのが「金鶏山」。正対する場所に「束稲山」がある
「柳之御所資料館」にて。遺跡から出土した貴重な考古資料を展示している

平泉駅前で「古都ひらいずみガイドの会」事務局長・関宮さんと合流した森村誠一師匠一行は、駅舎を背に右手へ。旧国道を進むと右手に「伽羅御所入口(きゃらのごしょ)入口」の標識が。右へ曲がり進むと秀衡、泰衡の住まい跡と推定される「伽羅御所跡」です。この一帯は奥州藤原氏の都の跡。政庁の跡といわれる「柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)」、寺院跡の「無量光院跡(むりょうこういんあと)」などが点在。とはいえ、往時をしのぶ建造物はなく、発掘された建物跡と遺物のみが事実を伝えます。刈り入れの済んだ田んぼや住宅が連なる小径を歩きながら、800年以上前の平泉へと思いを馳せました。

芭蕉の気持ちが胸に去来する景観 高館義経堂

高館に立つ森村師匠。北上川と束稲山を一望。その胸中に迫ってくるものは?
「夏草や……」の句と、「おくのほそ道」の高館の一文が刻まれた石碑
義経の木像がまつられた「義経堂」。仙台藩主4代伊達綱村が建立

続いて訪れたのは「高館義経堂(たかだちぎけいどう)」。平泉に着いた芭蕉が、いの一番に向かった場所です。高館は平泉へ逃れた義経の居館があったとされ、末期を迎えた場所。芭蕉が訪れる6年ほど前に義経堂が建立されています。入口から頂上へと通じる石段を上ると、ぱっと視界が広がりました。正面に束稲山(たばしねやま)、その手前に北上川が流れる雄大な眺め。それは、芭蕉が「おくのほそ道」に記した風景そのもの。眼前の景色へと心遊ばせるかのように、しばし佇む森村師匠。日本文学史上に残る傑作「夏草や兵どもが夢の跡」が生まれた瞬間に、時を越えて立ち会っていたかのようでした。

平安時代の輝きを今に伝える 中尊寺・金色堂


「金色堂新覆堂(こんじきどうしんおおいどう)」前。中に金色堂が保護されている「中尊寺本堂」の門前。本堂では最澄が灯した「不滅の法灯」が燃え続けている「金色堂」敷地内にある「五月雨の……」の芭蕉句碑

高館義経堂をあとに、曾良の句碑のある「卯の花清水(うのはなしみず)」を訪ねた森村師匠一行は、いよいよ「関山 中尊寺(かんざん ちゅうそんじ)」へ。慈覚大師円仁の開基と伝わる天台宗東北大本山の寺院で、藤原氏の初代清衡が戦乱で亡くなった人々の鎮魂、奥州安泰の願いが込め多くの大伽藍を造営しました。芭蕉同様、本堂の参拝を済ませた森村師匠は、「金色堂(こんじきどう)」へと向かいました。建武4年(1337)の火災により多くの堂塔が消失した中尊寺において、創建当初の姿を今に伝えるのが、天治元年(1124)に建立された金色堂です。燦然と輝く金色堂を見た感興を詠んだのが「五月雨の降り残してや光堂」の句。芭蕉の訪問時は快晴でしたが、推敲に推敲を重ねこの名句へと至りました。今は平泉観光のメインスポットであり、常に人々の目を集め、さざめきに包まれるなかに鎮座する金色堂。平安の様式を今に伝え、荘重な輝きを放つその姿は、さながらタイムマシンのようでした。

平安のかおりを色濃く残す庭園美 毛越寺

自然の景観を描き出す「浄土庭園」の大泉が池。平安の優美を伝える
続いて向かったのは、中尊寺と並ぶ人気スポット「毛越寺(もうつうじ)」。二代基衡、三代秀衡により造営され、その規模は中尊寺をしのぐとも。度重なる災禍で建造物のほとんどが焼失しましたが、現在は大泉が池を中心とした浄土庭園が復元され、また寺塔の礎石遺構により往時をしのぶことができます。


「夏草や……」の句が刻まれた2基の句碑。左は芭蕉の直筆から彫られたもの
場内で最古の堂「常行堂」。享保17年(1732)に再建された

山門を入り進んだ右手には、芭蕉の直筆を彫った「夏草や……」の句碑や新渡戸稲造の英訳の句碑などが立っています。森村師匠一行が立ち寄ったのは午後遅くの時間。境内を回遊するうちにもみるみる傾きを増していく秋の日差しが、優美な浄土庭園に見事な陰影を与えます。ちなみに、芭蕉はこの寺に立ち寄っていません。金色堂を拝殿した芭蕉は、「金鶏山(きんけいざん)」等を回り一関へと戻りました。芭蕉の平泉滞在はわずか4時間ほど。これだけの実体験で世上に高い2句を残しました。今回の森村師匠の平泉訪問もまさに駆け足でしたが、滞在時間だけでははかれない濃密な印象を残してくれたことでしょう。

取材・撮影/P.M.A.トライアングル MAP作成/アットミクスト

「平泉から尿前の関へ─Part3」

森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる
連続14回連載

Special Message from Seiichi Morimura

「芭蕉出立の地、深川を訪ねる」

「平泉から尿前の関へ─Part1」

「平泉から尿前の関へ─Part2」

「平泉から尿前の関へ─Part3」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part1」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part2」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part3」

⑨ 「立石寺、最上川から日本海へ─Part1」
春更新予定

プロフィール

森村誠一

森村誠一(もりむら せいいち)

1933年埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大学卒業後、10年間のホテルマン生活を経て作家活動に入る。『高層の死角』(第15回江戸川乱歩賞受賞)、『腐蝕の構造』(第26回日本推理作家協会賞受賞)、『人間の証明』(第3回角川小説賞受賞)『悪魔の飽食』『コールガール』など数多くのベストセラー作品を著し、本格派推理小説の世界で不動の地位を築く。作家活動40周年にあたる2003年には、第7回日本ミステリー文学大賞を受賞した。
近年は、新たな表現として“写真俳句”の創作、普及にも力を注いでいる。

http://www.morimuraseiichi.com/

http://www1.tategaki.jp/morimura/

http://shashin-haiku.jp/

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