TOP » 森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる⑦

旅の発見スペシャルコンテンツ

白河の関から那須、そして日光へ─Part2|那須連山の南麓を行く那須湯本、黒羽、雲巌寺

日光参拝を終えた芭蕉と曾良。次の目的地としたのが、信頼厚い門人・桃雪、翠桃兄弟の住む、黒羽城下でした。日光~黒羽~那須湯本一帯は、当時はどこまでも続く原野です。

雄大な自然のなかに芭蕉の足跡を追う

白河訪問を終え、昨晩は那須湯本まで移動した森村誠一師匠と一行。投宿した「松川屋 那須高原ホテル」にて、名高い「鹿の湯」からひかれた源泉の、肌にやさしい乳白色の湯を堪能しました。その後、那須町教育委員会の小山田教育長はじめ、町役場、観光協会、地元観光施設の方々と歓談。「おくのほそ道」を仲立ちに交流の輪が広がりました。

そして、この日、晩秋の高原ならではの澄明な空気のもと、那須連山南麓に点在する芭蕉ゆかりの地をたずねて回りました。今も手つかずの自然がそここに残る那須野。往時は一面の原野で、芭蕉が歩いたのは、迷路のように続く野道だったようです。

黒羽の「浄法寺桃雪邸跡」に立つ森村師匠。晩秋の夕暮れ、去来する思いはいかに

由緒ある神社と荒涼たる景色が隣り合わせに|那須温泉神社・殺生石

「那須温泉神社」にて。創建は7世紀といわれる古社。那須与一が誓願した神社であることが芭蕉の興味をひいた
「殺生石」にて。賽の河原のような光景が広がる。芭蕉句碑がすぐそばに立っている

宿を出て、冷たい朝の空気の中を歩き「那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)」へと向かいました。同行は那須歴史探訪館の齋藤館長と那須町商工観光課の平山さんです。芭蕉が神社へ参拝したのは、陰暦4月19日(陽暦6月6日)のこと。「曾良旅日記」には同地で芭蕉が詠んだ句として「湯をむすぶ誓いも同じ石清水」が記されており、境内には句碑があります。参道を本殿めざし、鳥居を次々くぐり進みます。振り返ると陽光に光る石畳の参道の先に、那須高原の絶景が! 芭蕉もきっと、視界の果てまで続く那須野を見て、自分の辿った道のりを思ったのではないでしょうか。

本殿参拝をすませ、右手に回ると、いきなり荒涼たる景色が広がります。谷間に広がる「殺生石(せっしょうせき」です。おどろおどろしい名前の由来は、石の周囲からガスが噴出し、このガスで死ぬ鳥獣が多かったことから。その光景を見て詠んだ句が「曾良旅日記」あります。「石の香や夏草赤く露あつし」。今もガスが自噴し、周囲には植物が生えない荒涼たる荒れ地を前に、森村師匠はどんな句境を得たことでしょう。

高久家にて、芭蕉の筆跡に出合う|高久

高久家に伝わる芭蕉の筆跡。殺生石を見ようと急いでいたが、雨が降り出しここにとどまった……といった事実と「落くるやたかくの宿の郭公」芭蕉、「木の間をのぞく短夜の雨」曽良の句が記されている
「芭蕉翁塚」覚左衛門の孫、青楓が芭蕉が当地を訪れたことを記念し建てた

那須高原から国道17号線(那須街道)をくだり、那須町と大田原市の境に近くに位置する高久家(たかくけ)に立ち寄りました。黒羽から高久宿は4里ほど、雨に降られた芭蕉は高久村の大名主・高久覚左衛門(たかくかくざえもん・5代目)宅に1泊。翌日も雨のためもう1泊しました。そのため「芭蕉二宿の地」と当地では呼ばれています。高久家では、15代目の当主にあたる高久昇一さんが出迎えてくれ、庭にある宝暦4年(1754)建立の句碑、隣接地にある「芭蕉翁塚(杜鵑(とき)の墓)」を案内していただき、当家に伝わる謂われなどを披露していただきました。

ひととおり説明いただいたあと、昇一さんがお宅から額入りの書を大事に運び出されました。これこそ高久家に伝わる芭蕉の筆跡です。森村師匠はじめ一行は、その筆跡を目に焼き付けるかのようにじっと見つめます。高久家を辞したあと、すぐ近くにある「高福寺」へ。高久家の菩提寺であり覚左衛門の墓碑もここに。また境内には、芭蕉句碑もあります。那須町に残る芭蕉の足跡をたどった一行は、ここで那須町に別れを告げ、大田原市へと向かいました。

禅の師・仏頂和尚の修行の地|雲巌寺


「雲巌寺」にて。仏頂和尚が居住した庵の跡には碑が建てられているが、現在は立入禁止山門をくぐり境内に入った左手ある句碑。「木啄(きつつき)も庵(いお)はやぶらず夏木立(なつこだち)」。

芭蕉が黒羽に着いたのは、陰暦4月3日(陽暦5月21日)のこと。到着の翌々日に訪ねたのが「雲巌寺」です(「おくのほそ道」では黒羽滞在の最後に記されている)。芭蕉がこの寺を訪れた理由は、深川で親交のあった禅の師匠である仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)が修行を積んだ地であること。

芭蕉にならい、森村師匠一行も、黒羽の町を通り過ぎ、まずは雲巌寺へ。ここでは「ふるさとを知る会」のガイド・直箟(すぐの)さんはじめ大田原市黒羽支所の方々と合流し、境内をめぐることになっています。黒羽の町から約12km、山懐に抱かれるようにある雲巌寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、越前の永平寺などと並ぶ禅宗の四大道場のひとつ。渓流を望みながら朱塗りの橋をわたり、山門から境内へと向かいます。訪問時はまさに紅葉の盛り。背後の山の燃えるようなもみじと、禅寺ならでは虚飾を廃した建造物の見事な対比は、まさに一幅の絵。静謐な雰囲気漂う境内を行くと、身の引き締まる思いがします。森村師匠もしばし句作を忘れたように、無言で散策を続けました。

門弟とのあたたかな交流を残す|黒羽

「浄法寺桃雪邸跡」にて。黒羽には、ここを含め10基の芭蕉句碑があり、スタンプラリーも楽しめる
「黒羽芭蕉の館」の館内。芭蕉と黒羽のかかわりを各種資料で多角的に紹介。特別展示室では、黒羽藩主大関家伝来の甲冑や刀剣なども鑑賞できる

日光から那須野ヶ原を苦労して越え、黒羽城下へ到着した芭蕉を迎えたのは、黒羽藩城代家老の浄法寺図書高勝(じょうぼうじずしょたかかつ)、その弟の岡豊明(おかとよあきら)の兄弟。兄は桃雪(とうせつ)、弟は翠桃(すいとう)の俳号を芭蕉から与えられています。芭蕉の正式な俳号が「桃青(とうせい)」ということからもわかるとおり、いかに信頼が厚かったかがうかがえます。2人をはじめ多くの俳諧仲間からあたたかいもてなしを受けこともあり、芭蕉の黒羽城下逗留は13泊14日におよびました。2人の家を拠点に、雲巌寺のほかに修験光明寺(現存せず)、玉藻稲荷神社、那須神社などへ出向いています。そんな縁から、黒羽は「芭蕉の里」として全国的に知られ、黒羽城址公園には「黒羽芭蕉の館」「芭蕉の道」「芭蕉の広場」があります。

夕暮れ迫る黒羽で、芭蕉の道を行く森村師匠と一行。「浄法寺桃雪邸跡」に出ると、そこは一面もみじが散り敷かれ紅の絨毯のよう。その上を自分の長い影を連れて歩き回り立ち止まり、行きつ戻りつ句作に没頭する森村師匠。俳句を通じた芭蕉と桃雪の師弟愛に感応したかのようでした。

森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる⑧ 「白河の関から那須、そして日光へ─Part3」

森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる
連続14回連載

Special Message from Seiichi Morimura

「芭蕉出立の地、深川を訪ねる」

「平泉から尿前の関へ─Part1」

「平泉から尿前の関へ─Part2」

「平泉から尿前の関へ─Part3」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part1」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part2」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part3」

⑨ 「立石寺、最上川から日本海へ─Part1」
春更新予定

プロフィール

森村誠一

森村誠一(もりむら せいいち)

1933年埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大学卒業後、10年間のホテルマン生活を経て作家活動に入る。『高層の死角』(第15回江戸川乱歩賞受賞)、『腐蝕の構造』(第26回日本推理作家協会賞受賞)、『人間の証明』(第3回角川小説賞受賞)『悪魔の飽食』『コールガール』など数多くのベストセラー作品を著し、本格派推理小説の世界で不動の地位を築く。作家活動40周年にあたる2003年には、第7回日本ミステリー文学大賞を受賞した。
近年は、新たな表現として“写真俳句”の創作、普及にも力を注いでいる。

http://www.morimuraseiichi.com/

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