TOP » 森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる⑧

旅の発見スペシャルコンテンツ

白河の関から那須、そして日光へ─Part3 巨木立ち並ぶ杉並木街道を抜け徳川家康の眠る東照宮をめざす

深川を発って4日目、元禄2年(1689)旧暦4月1日(陽暦5月19日)に、芭蕉と曾良は日光に入りました。その折の感興が「おくのほそ道」では、2句記されています。

家康へ畏敬の念が、日光へ立ち寄らせた?

前日、那須から黒羽へと芭蕉ゆかりの地をめぐった森村誠一師匠一行。早朝からの日光散策に備え、日光へ移動し宿をとりました。宿泊した「日光千姫物語」は、日光東照宮まで徒歩で10分ほど、大谷川(だいやがわ)の清流と日光連山を楽しめる最高のロケーションです。夜、日光市長・斎藤文夫氏をお招きし、日光千姫物語を運営する春茂登旅館グループの根元芳彦社長にも加わっていただき、芭蕉、そして日光をめぐる話題で大いに盛り上がりました。

翌朝、晴れ男・森村師匠のジンクスは今回も破られることなく、この日も快晴に恵まれた一行。紅葉がまさに見頃を迎えた日光へと繰り出しました。「おくのほそ道」のルートをたどるとき、日光への道行きは少々寄り道に見えます。なぜ芭蕉は日光を訪れたのか、芭蕉が日光で見たものは何か、様々な興味に答えてくれる1日となりそうです。

自らの興味の趣くままカメラを向ける森村師匠。カメラアングルにも独自の視点が光る

380年余、人々の行き来を見つめてきた杉木立|日光街道杉並木

「日光街道杉並木」にて。上今市の瀧尾神社近くの旧道。日本一の杉並木は、特別史跡・天然記念物の二重指定を受けている
杉並木沿いに広がる「杉並木公園」。名主屋敷や14基の水車などがある

歌枕の地「室の八島(むろのやしま)」に立ち寄るため日光街道から壬生(みぶ)道へと入った芭蕉は、さらに例幣使(れいへいし)街道を進みました。やがて今市の手前で杉並木が始まり日光街道と合流、東照宮へと向かいます。日光街道・例幣使街道・会津西街道からなる「日光杉並木街道」は、総延長37km。その造営は松平正綱があたり、寛永2年(1625)頃から20年の歳月をかけて、約20万本もの杉が植えられました。現在残る杉の木は13,000本ほどですが、樹齢380年を超える巨木が並ぶ様は壮大。神域へと向かう道にふさわしい佇まいです。

朝の陽光が斜めに射し込む旧道へと降り立った森村師匠一行。清々しい空気に満ちた杉並木をしばし散策します。東照宮への参拝路として、武士が、庶民が、そして芭蕉が行き来した道。そこでは、巨木の1本1本がまさに歴史の目撃者。じっと、その声に耳を傾けてみたくなります。

陽明門を仰ぎ見た芭蕉の感慨に浸る|日光東照宮・陽明門

「陽明門」にて。朝日に壮麗な装飾が浮かび上がり、堂々たる姿を見せる
手前から「唐銅鳥居」「陽明門」「本社」が一列に連なり、その奥に「奥社」が
「陽明門」をくぐる森村師匠。芭蕉もここから参拝をしたのだろうか

日光街道杉並木で、参拝へと向かう芭蕉の胸の高鳴りを実感した森村師匠一行。日光市役所商工観光課の前田さん、日光観光協会の町田さんと合流し「日光東照宮」へ向かいました。芭蕉がこの地を訪れたのは、徳川家康が祭神として祀られた約80年後のこと。徳川綱吉治下、政治も安定期にあり町人文化が花開いた元禄期。庶民の東照宮詣でも盛んだったことでしょう。

両側を杉木立で覆われた表参道を進む森村師匠。「東照大権現」の大額を掲げた石造りの巨大な一ノ鳥居が前方に見えてきます。鳥居をくぐると左手に五重塔が。石段を上り表門(仁王門)を抜け、いよいよ東照宮境内へ。参道を鉤の手に左へ曲がると、左手に三猿(さんざる)で知られる神厩舎(しんきゅうしゃ)があります。突き当たりを右に曲がり仰ぎ見ると陽明門(ようめいもん)が。当時の装飾技術の粋が尽くされた建造物は、見る者に時間を忘れさせます。

芭蕉が日光へ到着したのは昼過ぎのこと。江戸からの紹介状をもって拝観を願い出たのですが、先方に来客があり午後2時過ぎ(3時または4時との説もあり)まで待たされました。ようよう拝観を許された芭蕉、この日の感銘を詠んだのが「あらとうと青葉若葉の日の光」です。なお、芭蕉の日光参拝については、旅程がかなり強行軍でこの日どうしても日光へ立ち寄る必要があった? 携えた紹介状は重要な文書だったのでは? などなど多くの憶測が今もあり、謎を呼びます。

家康が眠る東照宮の最奥部へ|日光東照宮奥社・二荒山神社

「奥社参道」を行く。階段は冬期の凍結による破損を防ぐため一枚岩が用いられている「二荒山神社」にて。その境内は、日光全山とされ、いろは坂は男体山への参道とか「東照宮宝物館」の庭に立つ句碑。「あらとうと~」と句が刻まれている

往時、武士は陽明門の中の石畳、庶民は門の前に土下座して本殿を拝したとのこと。もちろん、現代はこの先へと進めます。陽明門をくぐった正面の唐門と本社(拝殿、本殿)は、現在「平成の大修理」として、長期間の修理事業が進行中です。右手に行けば、眠り猫の彫刻がある東回廊、その先は奥社へ続く奥社参道の階段です。当初は、ここで引き返すつもりだった森村師匠一行でしたが、好奇心には勝てず登ることに。石段の数は207段!徐々にペースダウンする一行を尻目に、8kmの散歩が日課の森村師匠は終始マイペースで登り切り、奥社拝殿前で一行を待ちます。右手から裏へ回ると高さ5m余の宝塔が。東照宮の最奥部にある徳川家康公の墓です。宝塔から遥か南は江戸、東京。今も、その安寧を静かに見守ってくれています。

東照宮を辞した一行は、隣接する「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」へ。本殿は、徳川秀忠の寄進によるもので、日光山内で最古の建造物です。男体山(なんたいさん・別名:黒髪山(くろかみやま))をご神体とする同社は、日光山岳信仰の中心的存在で、いわば日光山のルーツ。広々とした境内は、心地よい静寂に包まれています。その後、一行は「東照宮宝物館」の庭に立ち寄り、二荒山神社神官の子で洋画家の小杉放菴の筆なる「あらとうと~」の碑を見学。東照宮、二荒山神社を後にしました。

時を越え流れ落ち続ける滝|裏見の滝

山道を行く森村師匠。大谷川の支流・荒沢川にかかる橋を渡れば、滝はすぐそこ
「裏見の滝」の観瀑台にて。現在、崖の崩落等もあり、滝の裏側へ回ることはできない

日光・鉢石(はついし)の旅籠に宿をとった芭蕉は、翌日の午前中に「裏見の滝(うらみのたき)」へ向かいます。名前のとおり滝の裏側の洞穴から滝を見られることが名前の由来。滝の裏側へ入った芭蕉は、俗世間と切り離されるその感覚を「しばらくは滝にこもるや夏の初め」と詠みました。

現在、裏見の滝を訪ねるには、奥日光へと通じる国道120号線から北へ延びる道を行き、登り口から山道を歩きます。山の陰となり空気が冷たさを増した道を上り下ること20分ほど、山道の奥に滝が見えてきました。流れ落ちる滝の水音が響きわたります。夕方間近ということもあり、森村師匠一行以外に人気はありません。観瀑台へと上がり、間近の滝を見つめる森村師匠。夏の初めならぬ、冬の始まりを感じさせる晩秋の裏見の滝の光景に、どんな思いがよぎったことでしょう。

春更新予定

森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる⑨ 「立石寺、最上川から日本海へ─Part1」

森村誠一、謎の“奥の細道”をたどる
連続14回連載

Special Message from Seiichi Morimura

「芭蕉出立の地、深川を訪ねる」

「平泉から尿前の関へ─Part1」

「平泉から尿前の関へ─Part2」

「平泉から尿前の関へ─Part3」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part1」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part2」

「白河の関から那須、そして日光へ─Part3」

⑨ 「立石寺、最上川から日本海へ─Part1」
春更新予定

プロフィール

森村誠一

森村誠一(もりむら せいいち)

1933年埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大学卒業後、10年間のホテルマン生活を経て作家活動に入る。『高層の死角』(第15回江戸川乱歩賞受賞)、『腐蝕の構造』(第26回日本推理作家協会賞受賞)、『人間の証明』(第3回角川小説賞受賞)『悪魔の飽食』『コールガール』など数多くのベストセラー作品を著し、本格派推理小説の世界で不動の地位を築く。作家活動40周年にあたる2003年には、第7回日本ミステリー文学大賞を受賞した。
近年は、新たな表現として“写真俳句”の創作、普及にも力を注いでいる。

http://www.morimuraseiichi.com/

http://www1.tategaki.jp/morimura/

http://shashin-haiku.jp/

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